「妊娠届、5月は17・1%減少…コロナで産み控えか」
>新型コロナウイルスの感染への不安が高まっていた今年5~7月、全国の自治体が受理した妊娠届の件数は、前年同期比で1割超減少したことが厚生労働省の緊急調査でわかった。5月の減少幅が17・1%と最も大きかった。来年の出生数の減少が予想され、少子化の加速が懸念される。
「妊娠届、5月は17・1%減少…コロナで産み控えか」
>新型コロナウイルスの感染への不安が高まっていた今年5~7月、全国の自治体が受理した妊娠届の件数は、前年同期比で1割超減少したことが厚生労働省の緊急調査でわかった。5月の減少幅が17・1%と最も大きかった。来年の出生数の減少が予想され、少子化の加速が懸念される。
ちょっと悲しい話を聞きました。
他流の話なのであまりあれこれいうものではないのでしょうけれど、とある流派が断絶することがかなり確からしいという話です。
はたから見ると何とももったいないことだ、なんとかして残らないものか、と思うところではありますが、当事者からするとそうならざるをえない、そうせざるをえない事情もあるのでしょう。
案外他人ごとではなくて、神道夢想流でも乙藤春雄先生が神戸に伝えられた系統は免許皆伝者がなく、今後将来にわたって本来あるべき形での伝承は難しい状況と言えるでしょう。
生者必滅、と言いますからどんな歴史ある流派もいつかは途絶える、それが世の習いと言うものなのかもしれません。
ごく大雑把に考えると、杖道を始めてから6段になるのに最速で16年くらい。
そして、そこから8段になるのに最低16年。
6段っていうと先生と呼ばれるのが当たり前くらいだし、高段者と言って差し支えない段位ですけれど、そう考えるとまだ「ようやく半分まで来たかな」っていうくらいなんですよね。
もちろんそんなにスムーズに昇段できるわけでもないし、8段取得で修業が終わるわけでもないわけですが、なんというか、まだまだ先は長いし、まだまだ楽しみがいっぱいありそうですね。
いま菅生小学校の稽古では先生がお家の事情で稽古になかなか来られないので、私が代理で稽古の音頭を取らせてもらっています。
ずっと、というものでもないので「事情が落ち着くまでのしばらくの間はみんなで助け合いましょう」と言うことで私もできる範囲でのお手伝いと思ってやっています。
さて、先日先生が少しだけ顔を見せられて
「手伝ってくれるのは有難いけれど、せっかく再就職したんだから職場に迷惑かけちゃいけないよ」
「杖道はあくまで趣味だから、仕事と健康がまず大事だからね」
とお言葉をくださって、実にごもっともなことです。
こういう気遣い、気配りはさすがに先生だな、こういうところは私では到底及びもつかないな、と改めて思いました。
単に型が遣えるとか打突が出来てるとかじゃない、全剣連がいうところの全人的な意味合いでの練達と言うのはこういうところに現れるものなのかもしれませんね。
はい、そうです、最近再就職しました。
聞くところによりますと、今年の広島大会は中止となったそうです。
先日姫路で講習会をやったので、ひょっとしたら広島大会もやるのかなと思っていたんですけれど、残念です。
さすがに中四国に留まらず九州や関西まで人を集める大会は開きにくいですよね。
さて、そうすると次の東京の審査会がどうなるのかが大変に気になるところ。
和歌山での審査が実施されたことを考えれば当然実施されるんだろうとは思うんですけれど、開催地が東京の予定なんですよね。
東京への行き来はかなり制限されている組織も多いので、正直な話、大会がお流れになってしまった埼玉とかで開催していただくほうが、行く側としては行きやすいところがあるように思います。
施設を予約する都合上そう簡単にも行かないでしょうけれど。
もうすでに実施に向けて色々段取りが進んでいらっしゃるんでしょうけれど、さてどうなるのやら。
気にしててもしょうがないので素振りでもするか。うん、そうしよう。
最近ちょこっと「村上三島」という書家について触れる機会がありました。
故人ですが、故郷に博物館がたつほどに著名な方だったそうです。
書の世界のことはてんで知りませんのであれこれは書きませんけれど、目に留まった言葉がありました。
「模倣と技術ばかりに傾倒するのはよくない」
「書家はとかく美術性にばかり気を取られて、またやたらに変体仮名を使いたがる」
「小学生にも読める字でなくては書と言うものが浮世離れしてしまう」
おおよそそんなことを語ってらっしゃったようです。
勲章を授けられるほどに書の世界の高みに立った方が「小学生にも読めるように」と言うのは、実に含蓄があるというか反省を促されるような思いがします。
つい「上達とはより優れた技を身に付けることだ」と思って色んなテクニックを習得することに躍起になりがちですからね。
「初心忘るべからず」と言いますけれど、やはり「小学生にもわかるように」がすなわち初心ということになるんでしょうか。
また村上氏は
「墨の黒いところと紙の白いところがバランスよく決まると『よくできた』という気がします」
とおっしゃっていたそうです。
さて翻ってワタクシの杖道はというと、打突や構えについては日々気を付けて稽古していましたけれど、言われてみると自分の周囲の空間的な部分は意識したことがなかったかもしれません。
自分自身の良し悪し、あるいは相手の良し悪し、それだけじゃなくてそれら以外の部分の良し悪しもあるのだ、とは恐れ入りました。
先日は「おとろえ」について書いたわけですけれど、そんな高齢の先輩と今日一緒に稽古しましたら、
4本目斜面で鮮やかな杖の返しを披露されたり、
6本目物見で染みわたるような小手打ちを繰り出されたり、
しみじみと感じ入りました。
例え年齢とともに体は衰えて遣う型もあちこち崩れてしまったとしても、そこには稽古によって磨かれた何物かが随所に残されていて確かな輝きを保っているのだなあ、などと思いました。
そしてまた、冨永先生の「悪いところ探しじゃなくて、良いところ探しをするんですよ」という言葉も思い出されました。
そういう何物かを得ることができるように、稽古に励みたいですね。