岡山の南部では桜がかなり花を開いてきて、週末を待たずして満開になろうかという様子です。
そんななか、悲しい知らせが届きました。
私が杖を始めたころからいろいろとお世話になっていた先生が亡くなられたそうです。
咲いた花は散り、生まれたものは必ず土に還り、出会いがあれば別れがある、それが世の常、世の定めとはいえ、しみじみと悲しい。
先生に教わったことを忘れずに杖の道を歩むことが供養になると信じて、今はただご冥福を祈るばかりです。
岡山の南部では桜がかなり花を開いてきて、週末を待たずして満開になろうかという様子です。
そんななか、悲しい知らせが届きました。
私が杖を始めたころからいろいろとお世話になっていた先生が亡くなられたそうです。
咲いた花は散り、生まれたものは必ず土に還り、出会いがあれば別れがある、それが世の常、世の定めとはいえ、しみじみと悲しい。
先生に教わったことを忘れずに杖の道を歩むことが供養になると信じて、今はただご冥福を祈るばかりです。
世間が騒がしくなってもう1年が巡りましたが、梅は葉をつけ、桜は芽吹き、春は変わらずやってきます。
人の営みも変わるようで変わらずあり、卒業式があり入学式を控え、学校施設は大忙しで、そんなわけで普段学校の体育館を借りてしている稽古場は例年同様しばしのお休み。
変わったようで、変わらない日々。
その中で変わらず稽古を続ける人々こそ尊いし、そのような営みを支えることもまた美しいと、そんなおセンチなことを思いつつ、今日も庭で軽く素振りをするのでした。
昨日の記事に「後輩ができるとなかなか自分の稽古の時間が取れない」ということを書いたんですけれど、実のところ「自分の練習相手になる後輩を作るのが一番稽古になる」というのもまた事実なんですよね。
あんまり差がありすぎると却って遠慮しいしい業を遣うことになりますけれど、自分よりちょっと遅れてついてきてる、という程度の後輩がいると気兼ねなく業の実験台として相手をさせられるわけですね。
杖道委員の先生方は口を酸っぱくして「5段にもなったら自分の後輩、自分の弟子を持ちなさい。6段7段は言わずもがなです」とおっしゃるわけですけれど、まことにもってその通りだなと。
出来るなら2,3段のうちから後輩を誘い込んでおくと後々色々と便利そうですよ。
私はと言うと…一応あの人やこの人は私の後輩ということでカウントしていいのかな…?
ここしばらくずっと稽古できてなかった併伝武術を久しぶりに一人稽古しました。
前に稽古したのがいつだったか思い出せないくらいなので、ずいぶん長いこと間が開いてしまったなと思います。
型の名前も怪しいレベルまで行ってしまってたので、やっぱり折を見て稽古しないといけませんね。
ただ、現実問題として併伝武術は指導者や稽古相手をなかなか確保しにくいという面もあり、また道場の中で教わる立場から教える立場に移行してくると、どうしても後輩や弟子のために割く時間が増えて自分のための稽古時間も取りにくくなってくることもあろうと思います。
その中でどれくらいの稽古をやっていけるか、どうやって時間と機会ををひねり出すか、そこのあたりを考えないといけない段階にやってきたんですかねえ。