今月はちょっとしかつめらしい話が多かったので、月の終わりに少し柔らかい話をしましょうかね。
「古武道のアピールとして2次元コンテンツへ進出しよう!」的な話をだいぶ昔に書きましたけども、今期やってるアニメに「刀使ノ巫女」というのがありましてね。
また毎度のように美少女が刀振り回してキャッキャうふふしてるアニメっぽかったので、私は全くチェックしてないんですけども。
なんかtwitterでちらっと聞き込んだ話によると、殺陣のシーンで出てくるモーションの作成に本当に古武術を稽古伝承しているグループが協力しているそうなんですよ。
そういわれてプロモーションビデオを見ると、なるほど、刀の持ち方も怪しいようなほかのアニメとは一線を画しているように思われます。
きっかけはアニメだろうが時代劇だろうがなんでもいいんですよ。
妄想の世界で美少女と一緒に刀を振り回してみたい人、棒で人をぶったり突っついたりしてみたい人、その他理由は問いませんので武道・武術、とりわけ杖道並びに神道夢想流杖術の門戸を叩いてみてくださいね!
ところで私、ずーっと疑問だったんですよ。
「なんでアニメの少女はみんなミニスカやねん!」と。
そして最近ついに答えを得ました。
「ロングスカートはシワやらたなびきやら作画が大変だから」らしいです。
いや、ネットのイラストレータさんがつぶやいてただけで、本職のアニメータさんから聞いたわけじゃないんですけどね。
でもなんかストンと腑に落ちました。
そういう理由があるなら仕方ないね!
でも私はあんまり好きじゃないです、そういう安易なエロスは。
2018年2月28日水曜日
2018年2月27日火曜日
もうそう
「糸井嘉男に怒鳴られた恩師が明かす驚きの育て方 『子犬の本のおかげ』」
http://news.livedoor.com/article/detail/14145438/
>だが、大村は、糸井から逆に教えられたこともあると明かした。ある日、練習中「ダメ」を連呼してしまったときのことだ。「そんなダメダメばかり言っていたら、ホンマにダメになるでしょう!たまには褒めてくださいよ!」と、糸井から怒鳴られたのだ。
>指導法やアプローチに悩んだ大村は、何気なく立ち寄った書店でたまたま一冊の本を見つけた。それが、子犬が表紙のペットの育て方の本だ。そこに記されていた「しつこく叱らない」「できたら褒める」といったしつけを、「明日から糸井にやってみよう」と試みたのである。
例えばの話、タクシーに乗ってて運転手が曲がる道を1本間違えた時に
「ちーがーうーだーろー!!このハゲー!!」
「私をどこに連れて行くんだ!私を殺す気かーっ!!」
って叫ぶ人はどうかしてるって、多くの人は分かってると思うんですよね。
だけど、スポーツや武道の現場で
「違うだろう!!」
「何やってるんだ!!」
「そうじゃない!!」
「何回言わせるんだ!!」
「お前やる気あんのか!」
「そんな態度ならもう来るな!!」
なんていう人は結構あちこちにいるでしょ。
大人になるといいわけばっかり上手になって、しつけだのマナーだのエチケットだの大和魂だの、それらしい言葉を持ち出しちゃうんですよね。
そんなのウソです。大嘘です。
単に自分が言いたいだけです。
「オレこんなこともわかってるんだぜーそれに引き換えお前はこんなことも…」みたいに偉ぶりたいだけです。
アンガーコントロールができずに喚き散らしてるだけです。
自分の指導力のなさを責任転嫁してるだけです。
私がここでこんなことを賢しらぶって書いてるのと一緒です。
気を付けましょうね、お互いに。
http://news.livedoor.com/article/detail/14145438/
>だが、大村は、糸井から逆に教えられたこともあると明かした。ある日、練習中「ダメ」を連呼してしまったときのことだ。「そんなダメダメばかり言っていたら、ホンマにダメになるでしょう!たまには褒めてくださいよ!」と、糸井から怒鳴られたのだ。
>指導法やアプローチに悩んだ大村は、何気なく立ち寄った書店でたまたま一冊の本を見つけた。それが、子犬が表紙のペットの育て方の本だ。そこに記されていた「しつこく叱らない」「できたら褒める」といったしつけを、「明日から糸井にやってみよう」と試みたのである。
例えばの話、タクシーに乗ってて運転手が曲がる道を1本間違えた時に
「ちーがーうーだーろー!!このハゲー!!」
「私をどこに連れて行くんだ!私を殺す気かーっ!!」
って叫ぶ人はどうかしてるって、多くの人は分かってると思うんですよね。
だけど、スポーツや武道の現場で
「違うだろう!!」
「何やってるんだ!!」
「そうじゃない!!」
「何回言わせるんだ!!」
「お前やる気あんのか!」
「そんな態度ならもう来るな!!」
なんていう人は結構あちこちにいるでしょ。
大人になるといいわけばっかり上手になって、しつけだのマナーだのエチケットだの大和魂だの、それらしい言葉を持ち出しちゃうんですよね。
そんなのウソです。大嘘です。
単に自分が言いたいだけです。
「オレこんなこともわかってるんだぜーそれに引き換えお前はこんなことも…」みたいに偉ぶりたいだけです。
アンガーコントロールができずに喚き散らしてるだけです。
自分の指導力のなさを責任転嫁してるだけです。
私がここでこんなことを賢しらぶって書いてるのと一緒です。
気を付けましょうね、お互いに。
2018年2月21日水曜日
おつげだ!
先月でしたか、NHKスペシャル「人体 神秘の巨大ネットワーク」でひらめきが生まれるメカニズムについて放送していました。
ざっくりとまとめると、
「リラックスしているとき、ぼんやりとなにも考えていないときの脳の状態はむしろ高度に活性化していて、ひらめきが生まれるときの働きと非常に近い」
「リラックスしている状態のほうがアイディアは生まれやすい」
ということでした。
このことは私自身も経験があり、高校のころ数学のテストでどうしても解けなかった問題の解法が、帰り道をとぼとぼ歩いているときに突然閃いた、ということがありました。
「なんでもうちょっと早く思いつかないんだよ!」と悔しい思いをしましたけれど、のんびりリラックスして歩いていたからこそ思いついたんですね、これは。
中国の故事を探ると、経験的にはこのようなことは1000年も前から分かっていたようで、俗に「三上(さんじょう)」と言われるお話があります。
冨永先生も前回言われてましたね。
「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上、枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)なり。」
というフレーズが11世紀中期の中国の詩人、欧陽脩の「帰田録」に見えるそうです。
つまり、名文が浮かぶのは3つのパターン、馬に揺られてのんびりしているとき、寝入りばなや寝起きのうつらうつらしているとき、トイレでほっと一息ついたとき、ですね。
私の知っている話だけでも、作曲家すぎやまこういち氏がドラゴンクエストの名曲「序曲」を思いついたのはトイレに入って5分の間だったとか、漫画家矢上裕氏は夢で面白いネタを思いつくことが多いのでネタ帳を枕元に置いているとか。
ただ、夢うつつでメモしたことは後になるとたいてい解読不能なのだそうですけども。
さて、ここでわれらが神道夢想流の創立にまつわるお話を思い出してみましょう。
「夢に神の使いが現れて『丸木をもって水月を知れ』と告げた」ということでしたね。
同じように「修行中に夢で神がお告げをもたらした」という話は割とあちこちで見られるわけですけども、やはりこれも同じ現象なんじゃないかと思えます。
山にこもって刻苦勉励するうちに培った多くの経験が、眠りについたその時に頭の中で整理整頓され1本の線につながって現れ浮かんできた、そういう体験なのではあるまいかと。
ただの伝説・神話の類に思われる話にも実は科学的な裏付けがあるのではないか、と思うとなんだかわくわくしませんか?
そういうわけですから、行き詰まったり忙しくしたりしている中でもちょっとほっと一息つく時間を確保すると、なにかそれまでと違った名案が浮かんでくるかもしれません。
ただし、アイディアが思い浮かぶ大前提として「ああでもないこうでもないという試行錯誤を脳みそが擦り切れるほど繰り返している」ということがありますので、私みたいにただごろごろしているだけでは大発見などないだろう、ということは言い添えておきたいと思います。
ざっくりとまとめると、
「リラックスしているとき、ぼんやりとなにも考えていないときの脳の状態はむしろ高度に活性化していて、ひらめきが生まれるときの働きと非常に近い」
「リラックスしている状態のほうがアイディアは生まれやすい」
ということでした。
このことは私自身も経験があり、高校のころ数学のテストでどうしても解けなかった問題の解法が、帰り道をとぼとぼ歩いているときに突然閃いた、ということがありました。
「なんでもうちょっと早く思いつかないんだよ!」と悔しい思いをしましたけれど、のんびりリラックスして歩いていたからこそ思いついたんですね、これは。
中国の故事を探ると、経験的にはこのようなことは1000年も前から分かっていたようで、俗に「三上(さんじょう)」と言われるお話があります。
冨永先生も前回言われてましたね。
「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上、枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)なり。」
というフレーズが11世紀中期の中国の詩人、欧陽脩の「帰田録」に見えるそうです。
つまり、名文が浮かぶのは3つのパターン、馬に揺られてのんびりしているとき、寝入りばなや寝起きのうつらうつらしているとき、トイレでほっと一息ついたとき、ですね。
私の知っている話だけでも、作曲家すぎやまこういち氏がドラゴンクエストの名曲「序曲」を思いついたのはトイレに入って5分の間だったとか、漫画家矢上裕氏は夢で面白いネタを思いつくことが多いのでネタ帳を枕元に置いているとか。
ただ、夢うつつでメモしたことは後になるとたいてい解読不能なのだそうですけども。
さて、ここでわれらが神道夢想流の創立にまつわるお話を思い出してみましょう。
「夢に神の使いが現れて『丸木をもって水月を知れ』と告げた」ということでしたね。
同じように「修行中に夢で神がお告げをもたらした」という話は割とあちこちで見られるわけですけども、やはりこれも同じ現象なんじゃないかと思えます。
山にこもって刻苦勉励するうちに培った多くの経験が、眠りについたその時に頭の中で整理整頓され1本の線につながって現れ浮かんできた、そういう体験なのではあるまいかと。
ただの伝説・神話の類に思われる話にも実は科学的な裏付けがあるのではないか、と思うとなんだかわくわくしませんか?
そういうわけですから、行き詰まったり忙しくしたりしている中でもちょっとほっと一息つく時間を確保すると、なにかそれまでと違った名案が浮かんでくるかもしれません。
ただし、アイディアが思い浮かぶ大前提として「ああでもないこうでもないという試行錯誤を脳みそが擦り切れるほど繰り返している」ということがありますので、私みたいにただごろごろしているだけでは大発見などないだろう、ということは言い添えておきたいと思います。
2018年2月20日火曜日
ちゃっく!
前々回、礼について書こうか書くまいか迷った、と書きました。
全剣連式の立礼について今一つ納得行く答えが見つからないから、ということを書いたわけですけど、もう一つ理由があるんですよね。
例えばですよ。
「僕はおしゃれにはちょっとうるさいからさー、人のファッションについ口だししちゃうんだよねー」
「やっぱり男はウィンザー公みたくびしっと決めてなきゃダメだよねえ」
「こないだ誰それさんの講演で、よくあんな格好で人前で話せるもんだと思ったよ」
「あなた、そんな上着じゃダメだろう、色が全然合ってないじゃないか」
みたいに、聞きもしないのにベラベラと口うるさい人がいたら
うわ、クッソうぜぇ…
って思いませんか。
これがココ・シャネルだかイヴ・サンローランだかが言うならまあちょっと聞いてみようかとおもいますけどもね。
そこらのファッションかぶれのおっさんだったらどうしようもないでしょ。
これと同じで、礼についてあれこれご高説を垂れてる時点ですでに失礼じゃないの、って私は思うわけです。
ホントにおしゃれな人は聞かれもしないのに人の服にあれこれ言わないし、粋な人は自分のこと粋だって言わないし、礼をわきまえてる人の物言いはおよそ控えめなものじゃないですかね。私見ですけど。
前にも書きましたけど、論語にも「礼はその奢らんよりは寧ろ倹せよ」という節があり、また「剛毅朴訥、仁に近し」とあり、私はこれを目指したいと思うのです。
「すでにウザいよ、あなた」と思われてるかもしれないけど、せめて心はかくありたいと思う次第。
全剣連式の立礼について今一つ納得行く答えが見つからないから、ということを書いたわけですけど、もう一つ理由があるんですよね。
例えばですよ。
「僕はおしゃれにはちょっとうるさいからさー、人のファッションについ口だししちゃうんだよねー」
「やっぱり男はウィンザー公みたくびしっと決めてなきゃダメだよねえ」
「こないだ誰それさんの講演で、よくあんな格好で人前で話せるもんだと思ったよ」
「あなた、そんな上着じゃダメだろう、色が全然合ってないじゃないか」
みたいに、聞きもしないのにベラベラと口うるさい人がいたら
うわ、クッソうぜぇ…
って思いませんか。
これがココ・シャネルだかイヴ・サンローランだかが言うならまあちょっと聞いてみようかとおもいますけどもね。
そこらのファッションかぶれのおっさんだったらどうしようもないでしょ。
これと同じで、礼についてあれこれご高説を垂れてる時点ですでに失礼じゃないの、って私は思うわけです。
ホントにおしゃれな人は聞かれもしないのに人の服にあれこれ言わないし、粋な人は自分のこと粋だって言わないし、礼をわきまえてる人の物言いはおよそ控えめなものじゃないですかね。私見ですけど。
前にも書きましたけど、論語にも「礼はその奢らんよりは寧ろ倹せよ」という節があり、また「剛毅朴訥、仁に近し」とあり、私はこれを目指したいと思うのです。
「すでにウザいよ、あなた」と思われてるかもしれないけど、せめて心はかくありたいと思う次第。
2018年2月14日水曜日
うっかり!
年末年始あたりから「来年夏には6段審査だよね」と先生に言われてついその気になってましたけど、調べなおしたら5段合格が2015年夏だから6段受験は再来年じゃーん!!
ということでまだしばらくなんちゃって5段の気楽な日々を送りたいと思います。
やれやれ。
ということでまだしばらくなんちゃって5段の気楽な日々を送りたいと思います。
やれやれ。
2018年2月13日火曜日
杖道上達講座 その8:礼法について
ブログ自体も、このタグも、だいぶ久しくご無沙汰しましたけども、書こうか書くまいか悩んだ末にだいぶ危険なネタについて書いてみようと思います。
ということで、今回は「礼法」について。
例によって、あくまでここに書くことは現時点で私がぼんやりと考えていることであって、全剣連や神道夢想流の教義はこうだと語るものではないです。
後輩諸氏に「礼法で大事なことって何ですか?」と聞かれたら私はこうじゃないかと思うよ、と答えるようなそんな程度の内容です。
さて、礼法について大事なことはと問われたら、私が大事だと思っているのは2点。
1.相手をよく見ること
2.相手に合わせて動くこと
この2つです。
礼法というと、多くの場合「お辞儀の角度が…」「杖の持ち方が…」とかそういう部分にフォーカスしがちなように思います。
それらが間違いというわけじゃないけれど、それらはあくまで「所作」「決めごと」であって、礼法の中核をなす部分とはいいがたいのではないか、と最近思うようになりました。
要するに、どんなに完璧なお辞儀ができたとしても、相手のことを鑑みずに勝手にパッパパッパ動いていては礼にならないよ、ということですね。
同時に、どれほど相手と呼吸が合っていてもいい加減なお辞儀・所作では礼法として不足である、ということも言えるでしょうね。
で、これって型を遣うときの心得と全く変わらないと思うんですよね。
相手をよく見る、相手の起こりを捉える、相手の動きに合わせて打ち込んでいく。
違うのは相手と和するのか撃ち合うのか、頭を下げるのか得物を打ち込むのかということだけ。
口では礼が大事だとかうるさく言ってても、いざ型に入ると相手のことなどお構いなしに勝手にさっさと動いてしまう人、いるでしょ?
そういう人は形だけはちゃんとできているようで、結局独りよがりの礼だし自分勝手な型遣いですよね。
それでは型として成り立たないし、術として遣えているとはいいがたいと思うわけです。
ましてそういう人とまた次も一緒に稽古したいとも思えませんしね。
礼にせよ術にせよ、極めれば相手の心身の働きを感受し、時に合わせ時に乱し、和するも倒すも自由自在、ということになるのかもしれません。
このへんはあくまで私の拡大解釈です。
さて、次はもう少し別の視点から礼法を捉えてみたいと思います。
「決められたことを決められたとおりにすることが、礼法足りうるか?」という疑問。
「全剣連ではこう決まっているんだからその通りにしなさい」というのはよく言われることです。
決まりを守る、ということは美徳であり礼法に適う、というのは一見正しいように見えます。
しかし、「決まりだから」という理由で従うとしたら、それはただの盲従に過ぎず礼法足りえないのではないか。
例えば、「赤信号を渡ってはいけない」というルールがあります。
なぜ赤信号を渡ってはいけないの?と子供に聞かれて「ルールだから」で納得してくれるでしょうか。
「交通をスムーズに保って事故を無くすためだ」と理解していて初めて意味が生まれるわけです。
そう考えた時、「そう決まっているからその通りにせよ」という言い回しはとても空虚に思えます。
とはいえ、駆け出しの初心者のころからいちいち「なんで?」「どうして?」と立ち止まっていては全く先に進まないというのもまた事実。
だからごく最初のころは「こう決まっている」という教え方/覚え方でいいと思います。
そこから稽古が進むにつれて「こういう理由ではないか」という考えを持つようになれたら、形のなかの身が伴ってきて礼が礼として働き始めるのかなと思うのです。
この辺りも基本打ちや型の覚え始めのころと一緒ですね。
…なんでこのネタにあまり触れたくなかったか、っていうとこの辺りなんですよね。
前にもちょっと書きましたけども、「立礼はカカトをつける」に対して、「剣道に合わせます」はいいとして、じゃあなんで剣道ではカカトつけるんですか?っていう答えが返ってこない/導けないから。
さて、空しい問いは横へ置くことにして本日のまとめ。
1.相手をよく見る
2.相手に合わせる
3.作法の意味を考える
最期に、私の愛読書?である論語から意味深な一節を抜き出して終わりたいと思います。
子大廟に入りて事毎に問う。
或るひと曰く、敦か鄒人の子を礼を知れりと言うか。大廟に入りて事毎に問う、と。
子之を聞きて曰く、是れ礼なり、と。
<孔子が(祭祀の手伝いのため)廟に入ってこと細かく作法を尋ねた。
それを見て「孔子は礼法に通暁した人だなんて誰が言ったんだ。何もかも聞かなきゃわからないんじゃないか」と言うものがいた。
孔子はそれを聞いて「こうすることが礼なのだ」とおっしゃった。>
本当は礼法を細かく知ってはいてもそれをひけらかしたり押し付けたりしないようにする、ローカルルールを尊重する、それも礼法だ、ととらえるか。
はたまた本当にわかってなかったのをうまいこと言い抜けたのか。
真実は子のみぞ知る…。
ということで、今回は「礼法」について。
例によって、あくまでここに書くことは現時点で私がぼんやりと考えていることであって、全剣連や神道夢想流の教義はこうだと語るものではないです。
後輩諸氏に「礼法で大事なことって何ですか?」と聞かれたら私はこうじゃないかと思うよ、と答えるようなそんな程度の内容です。
さて、礼法について大事なことはと問われたら、私が大事だと思っているのは2点。
1.相手をよく見ること
2.相手に合わせて動くこと
この2つです。
礼法というと、多くの場合「お辞儀の角度が…」「杖の持ち方が…」とかそういう部分にフォーカスしがちなように思います。
それらが間違いというわけじゃないけれど、それらはあくまで「所作」「決めごと」であって、礼法の中核をなす部分とはいいがたいのではないか、と最近思うようになりました。
要するに、どんなに完璧なお辞儀ができたとしても、相手のことを鑑みずに勝手にパッパパッパ動いていては礼にならないよ、ということですね。
同時に、どれほど相手と呼吸が合っていてもいい加減なお辞儀・所作では礼法として不足である、ということも言えるでしょうね。
で、これって型を遣うときの心得と全く変わらないと思うんですよね。
相手をよく見る、相手の起こりを捉える、相手の動きに合わせて打ち込んでいく。
違うのは相手と和するのか撃ち合うのか、頭を下げるのか得物を打ち込むのかということだけ。
口では礼が大事だとかうるさく言ってても、いざ型に入ると相手のことなどお構いなしに勝手にさっさと動いてしまう人、いるでしょ?
そういう人は形だけはちゃんとできているようで、結局独りよがりの礼だし自分勝手な型遣いですよね。
それでは型として成り立たないし、術として遣えているとはいいがたいと思うわけです。
ましてそういう人とまた次も一緒に稽古したいとも思えませんしね。
礼にせよ術にせよ、極めれば相手の心身の働きを感受し、時に合わせ時に乱し、和するも倒すも自由自在、ということになるのかもしれません。
このへんはあくまで私の拡大解釈です。
さて、次はもう少し別の視点から礼法を捉えてみたいと思います。
「決められたことを決められたとおりにすることが、礼法足りうるか?」という疑問。
「全剣連ではこう決まっているんだからその通りにしなさい」というのはよく言われることです。
決まりを守る、ということは美徳であり礼法に適う、というのは一見正しいように見えます。
しかし、「決まりだから」という理由で従うとしたら、それはただの盲従に過ぎず礼法足りえないのではないか。
例えば、「赤信号を渡ってはいけない」というルールがあります。
なぜ赤信号を渡ってはいけないの?と子供に聞かれて「ルールだから」で納得してくれるでしょうか。
「交通をスムーズに保って事故を無くすためだ」と理解していて初めて意味が生まれるわけです。
そう考えた時、「そう決まっているからその通りにせよ」という言い回しはとても空虚に思えます。
とはいえ、駆け出しの初心者のころからいちいち「なんで?」「どうして?」と立ち止まっていては全く先に進まないというのもまた事実。
だからごく最初のころは「こう決まっている」という教え方/覚え方でいいと思います。
そこから稽古が進むにつれて「こういう理由ではないか」という考えを持つようになれたら、形のなかの身が伴ってきて礼が礼として働き始めるのかなと思うのです。
この辺りも基本打ちや型の覚え始めのころと一緒ですね。
…なんでこのネタにあまり触れたくなかったか、っていうとこの辺りなんですよね。
前にもちょっと書きましたけども、「立礼はカカトをつける」に対して、「剣道に合わせます」はいいとして、じゃあなんで剣道ではカカトつけるんですか?っていう答えが返ってこない/導けないから。
さて、空しい問いは横へ置くことにして本日のまとめ。
1.相手をよく見る
2.相手に合わせる
3.作法の意味を考える
最期に、私の愛読書?である論語から意味深な一節を抜き出して終わりたいと思います。
子大廟に入りて事毎に問う。
或るひと曰く、敦か鄒人の子を礼を知れりと言うか。大廟に入りて事毎に問う、と。
子之を聞きて曰く、是れ礼なり、と。
<孔子が(祭祀の手伝いのため)廟に入ってこと細かく作法を尋ねた。
それを見て「孔子は礼法に通暁した人だなんて誰が言ったんだ。何もかも聞かなきゃわからないんじゃないか」と言うものがいた。
孔子はそれを聞いて「こうすることが礼なのだ」とおっしゃった。>
本当は礼法を細かく知ってはいてもそれをひけらかしたり押し付けたりしないようにする、ローカルルールを尊重する、それも礼法だ、ととらえるか。
はたまた本当にわかってなかったのをうまいこと言い抜けたのか。
真実は子のみぞ知る…。
2018年2月7日水曜日
ぴーぴー
えー、しばらく更新をお休みしておりましたけれども、その間なにをしていたかといえば、ちょっと暖かいところに行っておりまして。
まあそれは前もって書いた通りです。
1週間もたてば寒気も引いているだろうと思ったのに、全然そんなこともなく冬将軍が全力稼働中でしたね。
そのせいなのかどうなのか、帰ってきて早速お腹に来る感じの風邪を食らってお休み中です。
いったい何のために暖かいところへ避難していたのか…。
いきなり寒気がして高い熱が出たからすわインフルかと思いましたけど、医者に掛かって検査しても陰性でしたし、出すものを出したら一気に熱も下がったし、咳も鼻水も特にないのでむしろ食あたり的な何かなのかもしれない。
いずれにせよ、人様に移すとまずいのでもう2,3日はおとなしくしておこうと思います。
まだお腹が緩い感じだしね。
やたらに風邪をひきやすくなったのは一体なぜなんだろう、と首をひねるばかりです。
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