学生時代にかわいらしい後輩から「せんぱい!」なんて呼ばれてみたかったと、しょうもないことを思って見たりすることもあります。
そんな馬鹿馬鹿しい妄想は脇へ置いておきまして、道場での真面目なお話をしたいと思います。
有り難いことに最近道場に新顔さんが立て続けに入ってこられましたので、着付けの仕方から太刀の持ち方、杖の構え、礼の作法と、一から教えることになっております。
自分が入門したばっかりの頃はどうやって教えていただいたんだっけ、何から教えていただいたんだっけなあと、10年前のことを一生懸命思いだしているわけです。
この「教える」ということがなかなかに難しい。
まず相手のレベルに合わせなきゃいけない。
入門したばかりの人にあまりあれこれ細かいことを伝えてもムリな話だし、かといってあまり何も言わないとおかしな癖が付いて先々になって矯正が難しくなるし。
相手の目標も考えないといけませんわね。
壮年老年にさしかかって健康のために始めた人と、学生さんなんかのバリバリ杖と太刀を振り回したい人とではアドバイスの仕方も内容も違ってきます。
さらに言えば、自分の言おうとすることが正しいのかどうかという問題ね。
論語にもこんな一節があります。
「曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而忠乎、与朋友交言而不信乎、伝不習乎。」
「曾子曰く、吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」
「曾先生は仰った。『私は日に3度反省する。人のために考えて心から接することができていなかったのではないか。友人と誠実に交遊できていなかったのではないか。
ろくに理解できていないことを人に教えたりしていないだろうか。』」
この「習わざるを伝うるか」という節ですね。
まだ初段か2段のころに、ちょっと後から始めた人に賢しらぶってよく修得できてもいないことをベラベラしゃべったことが私にもありました。前にも書きましたけれども。
どこから持って来たんだかよく分からないことを言っているような人があり、自分勝手な解釈で講釈をしているような人があり、このあたりは真にもって人間の業の深いところであるなと思いながら、自分も好き勝手言ってないだろうかと省みるばかりです。
ちなみに論語にはさらにこんな節も。
「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う(言おうとすることをまず行動で示して、それから言葉にするのだ)。」
「古者、言をこれ出ださざるは身の及ばざるを恥じてなり(昔の人はできもしないことを言うのは恥ずべきこととしていた)。」
「君子は言は訥にして行に敏ならんと欲す(立派な人は口数少なく実行に務めるよう有りたいと望む)。」
論語は一読して損はないと思いますですよ。