2016年6月4日土曜日

くぎょう

「苦行は悟りに至る道ではない」
ガウタマ・シッダールタ


上記の言葉は先日も書きましたけれど、痛い・苦しい・辛いことを経験すれば成長するっていうのは甘えた考えです。


そこにあるのは「これだけ辛い思いをしているのだから、それだけ成長しているはずだ」という思考。
でも、「辛い思いをすること」と「成長につながること」には何の関係もない。
にもかかわらず、安易に苦行を選ぶのはただの思考停止であり、結果を伴わない自己満足以外の何物でもない。
「自分はこんなにつらい体験をやり遂げたんだぜ!!」という中身のない我慢自慢です。


さらに罪深いのは、自分ではなく他者に対して躾だの修行だのという名目で苦痛を課すこと。

そこには
「辛い思いをするのは自分じゃないから/自分じゃないけどいいだろう」
「躾・稽古のためだから苦しい思いをさせてもいいだろう」
「自分もやった/やらされたことだからいいだろう」
「目標が達成できなかったとしてもそれは自分のせいじゃない、コイツが無能なせいだ」
「苦しめたとしても、いつか『お前のためだった』とわかってくれるだろう」
という何重もの甘えた考えが横たわっています。

挙句の果てに
「辛い思いをさせている自分だって辛いんだ!」
という身勝手な正当化が加わることもままあります。

当たり前ですけど、どれ一つとしていいわけないだろ!!


「獅子は千尋の谷に己の仔を蹴り落とす」とか言いますけどね、
空想の生物の想像上の行動を自分の行動の根拠にするんですか?
(現実のライオンはサバンナに生息しており崖も谷もない)


もちろん、人間だからつい手を上げたりひどい言葉を遣ったりすることはあるでしょう。
あるいは、上達・成長のためにどうしても苦しみを伴う道しか見つからないこともあるでしょう。
親でもコーチでも間違いを犯しうる。

だけれども、だからといって積極的に人を苦しめることが正当化されますか?


稽古であれば、
「もっと的確に伝わる言い方はどんなものか」
「もっと効果的に上達できる練習法は何か」
「もっと楽に習得できる方法はないのか」
ということを考えるのが現代の指導者に求められることだと私は思っています。

裏を返せば、
「伝わらないのは自分の伝え方が悪いのだろう」
「上達が見えないのは教え方によくない点があるのだろう」
「楽しくなさそうなのは無闇に苦しいやり方を課してしまっているのだろう」
という自らを省みる姿勢が必要だということ。

月月火水木金金の行きついた先が一面の焼け野原だったことを、我々日本人はもうちょっと真剣に考えねばならんのではありますまいか。


こんなネットの片隅でニートのおっさんが偉そうにぐだぐだ言って、それが正しいんだとか何かが変わるとかそういうことはないのではありますが、改めて私の考えをもう一度。

苦行は甘え。
苦行を他人に課すことは罪。

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