2020年5月30日土曜日

だいすき

武道館が使用可能になったので、大喜びで早速今週3回も個人使用で一人稽古してきました。
やっぱり自分は杖道が大好きなんだなあと改めて思いましたね。

同じ一人稽古でも人目を気にせず杖や木刀を振れるということ以外にも、やっぱり道場、武道館だと気が引き締まるように思います。
服装で気持ちが変わるように、場が整うと気持ちも整うという働きが人間には備わっているのでしょうか。

来週からは本拠の武道館も使用可能になるとのことで、後は単独稽古以外の通常の稽古もできるようになれば言うことはないですね。

2020年5月26日火曜日

かいきん

昨日から一部の武道館の使用が解禁されたので、早速個人使用を申請して稽古してきました。
広い道場にたった1人。贅沢だ…。

やはり広い空間で周りを気にせず思い切り木刀や杖を振り回せるのはとてもうれしいことですね。
単独稽古ではありますけれど、基本打ち12本と全剣連杖道12本、そして古流を仕杖のほうだけ一通りやってみました。

そして自分の衰えを感じましたね。
2か月弱、それだけの間にこんなにも下手になるのかと自分でびっくりしました。
足裏の感覚や重心の感覚が凄くあやふやで不確かな感じでした。
こんなことで夏の審査は大丈夫なのかと心配になります。
そもそも審査会が開かれるかどうかも問題なんですけどね。

なんかこう、配慮が働いて「みんなしばらく稽古できてないから少々足りなくても合格させようか」的な感じになったりしませんかね。
いやしかし、そんな審査で通ったところでその段位には有難みも値打ちもないし、やっぱりちゃんといつも通りの基準で審査してもらうほうがいいです。

それにつけても、あまり稽古がはかどらないのは変わらないはずなのにいつに変わらぬ業前の先生方はさすがだなあ。

いつもと違って、仕杖単独での奉納演武。

早く稽古も演武もいつもの通りにできるようになりますように。

2020年5月15日金曜日

しらんで

暇を見て庭で木刀の素振りをしたり杖の基本打ちをしたりしてるんですけれど、やっぱり段々に鈍っていってる感覚がありますね。
特に型や相対動作の「相手を見て動く」という部分は一人稽古ではなかなか掴めないところがありますから、この辺りの感覚の衰えがどこまでいくかは審査を控えた身としてはちょっと気になるところです。

一部地域を除いて緊急事態宣言が解除されたことでもありますし、早く道場での稽古ができるようになってほしいところです。


さて、話題は打って変わって手裏剣の話。


このブログには簡単なアクセス解析が備わってるんですが、どうも「棒手裏剣 投げ方」みたいな検索を掛けて飛んでこられた方がいらっしゃるようです。

すみません、このブログは杖道のブログでして、手裏剣の投げ方打ち方を知りたかった方には肩透かしを食わせた格好になって申し訳ないです。

私も遊びでやってるだけでちゃんと習ったわけではないので、手裏剣術を知りたい方はやっぱりちゃんとした先生について習うべきだと思います。
「いや、私もただ遊びでやりたいだけでガチで手裏剣術やりたいわけじゃないんだ」という人もいらっしゃるとは思いますけれど、そういう方は本屋でちゃんとした先生が書いた手裏剣術の本を買うか図書館で借りるかしていただくのがよろしいでしょう。
下手にネットで検索するよりよほどいい情報が得られると思います。
それも面倒くさいと言う人は、とにかく投げまくっていればそのうち感覚がつかめると思います。私はこのやり方ですね。

なんにしても、ネットで情報を探ってそれでなにか分かったような気になるのは色々危なっかしいと思います。
こんなこと言うとこのブログの存在意義を根底からひっくり返してしまいそうですけれど。


余談ですけれど、中学校の頃にクラスで画鋲投げが流行ったことがありまして、掲示物が片っ端から穴だらけになって先生に叱られてようやく流行が収まったということがありましたねえ。
人差し指に画鋲を乗せて放り投げて、2,3mくらい離れた壁に画鋲がぷすっとちゃんと刺さってたんだから大したものだと今更ながらに思います。

2020年5月9日土曜日

わからぬ

知っているからわからないことがある。
知らないからわかることがある。

そういうお話を紹介しましょう。

昔々あるところに評判の高い僧侶がいた。
近在の猟師がこの僧侶を訪問したところ、「よいところへ来た、この寺には先日より毎晩仏様が現れなさる。そなたもぜひ拝んでいかれるとよい」と言う。
その晩、猟師と僧とが共に夜更けまで本堂で過ごしていると果たして仏の姿が現れ、住職がありがたやと拝んでいたところ、なんと猟師が仏に向かって弓を射かけた。
闇をつんざくような絶叫が響いたかと思うと仏は消え、住職は慌てふためいて猟師を責めるが猟師は「本物の仏様ならば弓矢など通じるはずもない、あれは仏ではない何者かである」といって取り合わない。
夜が明けると庭に点々と血の跡があり、それを追ったところ年経た大狸の死骸が転がっていた。
「修行を積んだ徳の高いお坊さんならば仏様を見ることもあるだろう、しかし自分のように殺生を生業にするものにも見えるなどとはおかしなことだ。だから狐狸妖怪の類に違いないと思い矢を射かけたのである。この化け狸はきっとあなたを騙して取り殺そうとしていたのだろう」と猟師は言った。
この僧侶は「たいそうな坊さんだと思ってたら狸にも化かされた」と大いに評判を落としてしまったという。

宇治拾遺物語に見える話だそうです。

さて、この話をどう読み解くかはなかなかに難しいところです。

一生懸命勉強して物が分かったつもりになっていると足元をすくわれるとみるか。
目に一丁字もないものでも真理を知ることがあるとみるか。

狐狸妖怪にたぶらかされ取って食われようとも神仏を疑わざるをあっぱれとみるか。
疑いのまなざしをもって一命を救うも浄土へ至らざるをよしとするか。

僧は仏を信じていたから仏の導きで猟師が遣わされ命を長らえたとみるか。
猟師は仏を信じていなかったから弓を射かけて僧を救うことができたとみるか。

さて、私たちは杖道を学ぶときどんな心構えで臨んだらよいのでしょう。
そう考えるとなかなかに面白いのではないでしょうか。

2020年5月8日金曜日

おそれる

知っているから怖いと思うことがある。
知らないから怖いと思うことがある。

杖道では剣道や柔道のような地稽古や試合はありませんけれど、そういう対戦形式の試合では相手が実績のあるツワモノだとか、初めて対戦する相手でどう戦えばいいか分からないとか、怖くても立ち向かわなければならないこともあるわけですよね。

杖道でも、打太刀に斬られることを恐れず思い切って杖を遣わなければならないとか、杖に打たれたり突かれたりすることを恐れず太刀を斬りつけないといけないとか、そういう心構えは必要なわけですよ。

太刀が怖い、だからつい打太刀の起こりを待てずに先に動いてしまう。
杖が怖い、だからつい踏み込みが甘くなって太刀の間合いが遠くなってしまう。
よくあることですね。

それを克服していくには、やはり稽古を重ねて「相手がどのように遣おうとも私の技で十分対応できるはずだ」「自分自身の精いっぱいの技を出せたならそれで破れても悔いはない」という心構えを築いていかないといけないのでしょう。

いま社会で色々不安がありますけれど、そういう不安や恐れとどう向き合ったらいいのかを、武道は教えてくれるような気がしています。

2020年5月3日日曜日

スリケン!

手すさびに棒手裏剣を投げまくってて思ったんですよ。

刺さる刺さらないを抜きにしても、鉄の塊がかっ飛んでくるのはめっちゃ怖いだろうなって。

鎖鎌術の分銅も一緒ですけど、当たる当たらない抜きに鉄の塊がうなりを上げて飛んでくるだけでめっちゃ怖い。

こぶし大どころか指先大の石だって全力でぶん投げられたらめっちゃ怖いよね。
思い切って投げられるかどうかがまず問われる気がします。

そういえば前に先生が太刀遣いについて
「押し切りとか引き切りとか考えずに、しっかり斬りつけなさい」
って仰ってましたっけ。
同じ概念が通底しているように感じますね。

2020年5月2日土曜日

おとない

日が暮れてから、木刀片手に庭に降りると緑の匂いに包まれるようになりました。

先週まで冬の戻りのような不意の寒さがあったかと思いきや、もう初夏がやってきたようですね。

せっかくいい時期ですから、早く自粛が解けて人目を気にせず稽古ができるように道場にいけるようになってほしいものです。
いくら自宅の庭とか空き地とか言ってもどうしても人目を気にしながらの稽古は辛いものがありますからね。